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2014/08/10

8月10日メッセージ「キリストの弟子であるなら」

それから、イエスは群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて、彼らに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしと福音とのためにいのちを失う者はそれを救うのです。
マルコ8:34、35(34~9:1)

 メシヤの救いに十字架が「必ず、なければならない」と、お教えになった主イエスは、彼に従おうとする弟子に厳しい条件を告げられた。使徒など限られた弟子だけではない、「群衆を弟子たちといっしょに呼び寄せて言われた」ことで、キリスト者の弟子として従い行こうと願うなら、例外なく心得ておくべき以下の内容であった。だが、その犠牲が罪の許しや永遠の生命を与えるのではない。その祝福を与えて下さる方から離れずに歩むための注意事項である。ヨハネ12:25、26参照。

《自分を捨てて》 

イエスが「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て」と言われた。キリストの弟子として生涯を歩もうと願う者は誰でも、キリストの意向を優先させようとすれば、自分の判断や意向等を否定せざるを得ない。自己実現や自己の利益促進の願う世的な思いを捨てずに、受難の道を進まれるイエスに従うのは無理で、どちらかを捨てざるを得ない。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」(ガラテヤ2:20)のように、主イエスを否むのではなく、自分の世的思いを否定し、御子に万事を委ねて従おう。

《自分の十字架を負い》 

十字架は、私たちが神と和解するために御子が払われた多大な犠牲を意味し、環境や境遇からの困難や、自分の過失が招いた問題を意味してはいない。キリストに従って福音を証し、隣人に仕える時の誤解や迫害また犠牲を、積極的に引き受けることを指す。私たちの教会はどうか。十字架を負うことを回避しようとする者たちが平気でいられる状況は、教会として決して好ましくはない。信徒なら誰もが、小さな肢であっても、十字架を負って教会の頭であるキリストにしっかり繋がってはじめて、神の教会として健全だと言えよう。十字架を忌避する人に気兼ねし、人間的な配慮で甘やかすなら、教会はやがて崩壊する道を辿る。神と他者のために十字架を担おう(マタイ10:37,38)。

《キリストと福音を恥じず》 

今は「姦淫と罪の時代」で、キリストの救いをもっとも必要とする状況にあるが、その罪深さのゆえに神や信仰を愚かなことと断じて排除する時代でもある。福音を恥じざるを得ない環境が今の時代の特徴だ。だが世の評判に左右されてはならない。「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい」(マタイ10:28)。来たるべき永遠のいのちに与るために、「わたしと福音のために」、御子の福音を恥じずそれに仕えて殉教をも覚悟で、この世のいのちを活用することだ(ロマ1:16)。キリストの召しに応じて従い行くことは、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです」(ヨハネ14:6)と言われた主イエスの真理の道を辿り、豊かないのちに生きて、天の父の許に参ることにほかならない。

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