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2014/08/17

8月17メッセージ「栄光と受難のキリスト」

そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。彼らが急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエスだけで、そこにはもはやだれも見えなかった。
マルコ9:7、8(9:2~13)


《山上での栄光の姿》 

など3人の弟子を連れて山に登られたイエスは、本来の姿、神としての栄光をまとわれたのであった。普段の主イエスの姿は、普通の人間そのもののであった(ピリピ2:6、7)が、この時のイエスの衣は、真っ白に輝き、天的な神聖さを示していた。そこに「エリヤが、モーセとともに現われ・・・イエスと語り合っていた」という。モーセは神の律法をイスラエルに伝えたが、彼らの歴史は、「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう。今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行なっても栄え、神を試みても罰を免れる」との不信と反逆であった。だが神は、その民になお憐みを注ぎ、「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」(マラキ3:14、15、4:6)と、預言者エリヤの派遣を約束なさっていた。その正義の回復と救いの完成者がイエスその方であることを、この栄光の光景が教えている。

《弟子たちの混乱》 

弟子たちはイエスから、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは・・・」と言われ、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」(8:31)と、前にも言われていた。だが、今目撃した栄光の姿と、「多くの苦しみを受け、さげすまれる」(12節)とが、この時の弟子たちにはつながらない。イエスは数々の奇跡をなさった栄光の方だ。だが彼は、見捨てられ辱めを受け、十字架に架けられるという。このメシヤの十字架による救いは、当時の弟子たちに理解できなかった。いや、誰もこのような神の救いの計画を理解できず、「人々は、彼について書いてあるとおりに、好き勝手なことを彼にした」(13節)。人は聖霊によって新生し、その導きによってはじめて理解可能なことだ(Ⅰコリント2:6~16参照)。

《主イエスに聞く》 

主イエスは栄光の神であり、必ず復活なさり、また再臨され、栄光の主として君臨される。だが彼は受難の主でもあり、「自分を捨て、自分の十字架を負い、私について来なさい」(8:34)と私たちを招く。十字架に向かう前に栄光の姿を弟子たちに見せ、励まして下さった。キリスト者の歩みは、最終的には栄光の主に迎えられる。だが多くの苦難と恥を引き受けて行く、一見、損な歩みでもある。十字架は、他者の問題をあえて我が身に引き受けることを意味する。賞賛目当ての善行とは違う。キリスト者は、「彼の言うことを聞きなさい」(7節)と、神が指名された主イエスの指示に従い、神と隣人とに仕える役割を、感謝し喜んで引受ける人生だとも言える。主イエス・キリストの生涯が受難と栄光で彩られていたように、私たちも、この二つとも、避けることなく歩んで行こう(ヨハネ16:33)。

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