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2014/08/31

8月31日テーマ「不信仰の中の信仰」

イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」

マルコ9:19(14~29)

《私たちの苦悩と無能》

三人の弟子たちは、山上でキリストの栄光の姿を見た。しかし、下山してみると、そこは問題山積の苦悩の世界であった。悪霊憑きの息子を持つ父親から、息子の癒しを頼まれた弟子たちは、前にイエスに派遣された際に、悪霊を追い出し病人を癒した経験もあり、得意気にその願いを引き受けた。だが、弟子たちの業は功を奏せず、かえってその子に激しい痙攣を引き起こさせる結果となった。群衆の前で、弟子たちは無力さを見せて面目を失った。それを見た律法学者たちは、この時とばかり弟子たちに論戦を仕掛け、彼らをたじたじとさせた。父親が、「お弟子たちにはできませんでした」とイエスに訴えたが、その言葉は今の私たちにも、そして教会にも当てはまり、問題を前に無力さを痛感する。

《原因は私たちの不信仰》 

しかし、ひきつけを起こして地面に倒れ泡を吹いて転げまわる子を見ているほかはない無能な私たちだが、キリストが今私たちと共におられる。私たちには、力も知恵もないが、復活されて万物の統治者キリストが、私たちの教会におられる(エペソ1:20~23)。無力さを嘆く必要はなく、「わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」と、キリストは保障しておられる(Ⅱコリント12:9)。では、なぜ悪霊を追放出来なかったのか。理由を尋ねた弟子たちに、「祈りによらなければ・・・」とイエスは答えられた。もちろん、弟子たちは懸命に祈って癒そうとしただろう。しかしイエスは、「ああ、不信仰な世だ」と嘆かれ、「あなたがたの祈りは、祈りでない」と言われた。「もし、からし種ほどの信仰があったら・・・どんなことでも、あなたがたにできないことはありません」(マタイ17:20)とある。本物の信仰が問われている。神のみ心を知ろうともせず、人の目や自分の判断だけで自分を計り、人の評価を気にして祈る祈りは、どれほど熱心であろうと、偽善的なもので不信仰だと、イエスは言われた。

《不信仰から信仰へ》 

だが、イエスは不信仰の私たちを投げ出さず、私たちのうちに真の信仰を生み出そうと、「忍耐し、懸命に持ち上げ支えておられる」(「がまんする」の直意)。この主イエスの姿に気づき、その呻きを耳に聞くことが信仰だとも言えよう。「信じる者にはどんなことでもできる」とイエスに言われた父親は、「信じます。不信仰な私をお助けください」と懇願し、息子を癒していただいた。この父親の祈りにこそ、私たちは学び教えられる必要がある。私たちは、自分の不信仰を棚に上げ、別の願い事に夢中になり、神に向かって「信じます。だから何々して下さい」と祈る。しかし、この父親は、「信じますので、この不信仰な自分をどうか助けて、信仰のうちに歩ませてください」と祈っている。確かに私たちは、信仰をもって初めて、自分の中にある続ける利己的で、虚栄心と嫉妬、競争心などに容易に侵食されてしまう不信仰な自分に気づかされる。助けてもらわなければならないところは、何よりも私の不信仰だ。だからこそ、無力で不信仰な自分のために、私たちは断食しても祈る必要がある。

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