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2014/11/09

11月9日 テーマ「幼子のようになって」

イエスはそれをご覧になり、憤って、彼らに言われた。「子どもたちを、わたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
                マルコ福音書10:14、15(13~16)
 
《イエスは憤られた》

温和なイエスが、彼の祝福を求めて連れて来られた幼子を追い返した弟子たちに、激怒された。彼が憤られたという記録は少なく、弟子たちに対してはここだけで、本気で憤られたこの事件を弟子たちは印象深く覚えていたことだろう。ではどうして怒られたのか。憤りの理由の第一は、弟子たちがイエスと幼子との間に割って入り祝福を妨害したこと。第二は、弟子たちが傲慢にも人々をイエスの恵みにふさわしい者か否か判断出来ると思い込んでいたこと。第三に、幼児に神の国の祝福を受ける資格はないと、弟子たちが勝手に決めつけていたことで、これが一番大きな主イエスの憤りの原因だったと思われる。私たちにも該当する問題だ。
 
《イエスは祝福された》

偉い宗教家が来れば、親が子の将来の幸せを願いを連れて来て祝福してもらうことは当時の習慣でもあった。ガリラヤでのイエスのうわさを耳にしていたベレヤの人々は、彼が通られることを知って、幼児を連れて来たのである。すると「イエスは子どもたちを抱き、彼らの上に手を置いて祝福され」(16節)る麗しい光景が展開した。親の信仰や子を連れて来た利己的な動機が問われたわけでもない。幼児は無邪気だから、可愛らしいから、祝福される資格があるのだろうか。彼らは何をしたので、キリストの祝福に与ったのだろうか。主イエスの腕に己を委ねる者すべてを、彼は腕に抱いて、無条件で祝福が与えられたのだ。祝福は信頼するだけで注がれた。キリストのもとに祝福がある。譬えの中で「ただ私としては、この最後の人にも、あなたと同じだけ上げたいのです。自分のものを自分の思うようにしてはいけないという法がありますか」(マタイ20:14、15)と言われた方の祝福を仰ごう。参照ロマ3:23、24、エペソ1:3。
 
《イエスは望まれた》

ただここでイエスは、「まことになたがたに告げます」(15節)と厳粛に注意を促され、神の国の祝福を受ける資格として「子どものように神の国を受け入れる者」とは何を意味するのか。難しく考える必要はない。私たちはいつも何をしたか、とすることを重大視し、業績を問題とする。仕事に熱中するとそれを邪魔する者を排除し、目的以外の者が見えなくなる。人間疎外が起こる。だが人は、幼子を受け入れるように、受け入れ、また受け入れられることが必要だ。「キリストが神の栄光のために、私たちを受け入れてくださったように、あなたがたも互いに受け入れなさい」(ロマ15:7)。幼子はひとりではおられない。常の保護者を必要とする。親に依存して平安に過ごす。この子どもたちのように、神に依存しより頼んで生きることを、私たちは忘れてしまい、己の小さな力で生きようとあくせくする。先ずは神に委ね、キリストの腕に抱かれ、祝福をいただいて生きる者となろう。

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