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2014/12/21

12月21日テーマ「愛といのちを与えられ」

神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
ヨハネ第一書4章9、10節

<私たちは死んでいる>

 「神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました」とあるように、人はキリストを欠いてはいのちを持たない。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました」(エペソ2:1、2)ともある。実際、人は罪から離れられない(ロマ7:18,19、マルコ7:21~23)。神は、人を神に似たものに造られた。人が神と隣人と共に愛と信頼の交流の中に生きるように創造されたことを意味する(創世記1:27、2:18)。だが、人は神に背きその交わりを断たれ、罪に支配され、隣人とは不信と争いを抱え、孤独と不安の中に置かれ、やがては神の審判を受ける身となってしまっている。確かに人々は絶え間ない争いと不安の中に孤独を抱えて暮らしている。愛の喜びを知らず、怒りと憎しみを自他ともに向けている。これは人として死んでいること同じだ。

<神はキリストを遣わされた>

だが神は、私たちに救いの手を伸ばして下さった。背いている人間の不信のただ中に、神は御子を遣わして下さった。神の側からの一方的な愛の出動、しかも最大の犠牲を惜しみなく払ってのものであった(ヨハネ3:16)。冒頭の句は、「ここに神が示された、ここにあるではないか」と、繰り返し強調しているのは、私たちへの神の愛のことだ。神は、ご自分のひとり子を飼い葉おけに赤子として遣わし私たちに委ね、人々の憎悪と侮蔑を受けつつ十字架刑を引き受けさせ、私たちに救いの道を提供してくださった。ここに神の愛が、まざまざと見えるではないか、と使徒ヨハネは強く告げ、パウロはその犠牲の意義を伝えている(Ⅱコリント8:9、コロサイ1:19~20)。

<いのちを得るために>

 「ここにある」との標識は、そこに行き、それを受けよとの指示であり、愛の促しだ。愛はそれが相手に益をもたらすことを願う。「私たちはキリストの使節なのです。ちょうど神が私たちを通して懇願しておられるようです。私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリント5:20、21。参照Ⅰペテロ2:21~25)。このキリストの誕生と死そしてその生涯に、私たちは素直に目を留めて、自分に注がれている神の愛を知るところに、いのちと信仰が生まれる。そして「愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです」(Ⅰヨハネ4:11)との励ましに、喜んで同意して行動を起こす。これが新しいキリストのいのちに生きることだ。人の愛情は注ぐ範囲に限界があり程度に限度があり、時には薄れて消えてしまったり、憎しみや嫉妬にも変じることもある。だが神の不動の愛に私たちは支えられて生きる。

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