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2014/12/28

12月28日テーマ「キリストの剣と真の平和」

わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。
マタイ10:34
上のみことばは、イエス様が十二弟子を働きに遣わす時に語られた教えの一節です。「平和の君」として来られた救い主イエス様が、どうして剣をもたらすために来たと教えられたのでしょうか。

<私たちを、主を第一に従う者とするためです(35~37)> 

イエス様は家庭に争いをもたらすために来られたのではありません。イエス様の救いはその人の家庭にも祝福をもたらしますが、同時に、信じて生まれて変わった人は、何を一番にするかにおいて、まだ信じてない人と決定的に違う者になります。イエス様は人の姿を取って来られましたが、「わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」と命じられた主なる神であり、人の罪を赦すため十字架にかかられますが罪を憎まれる聖い神であられるからです。主の憎まれる罪との妥協や、主以外のものを第一にする偶像礼拝との妥協があっては、主と一つとなることはできません。信じる者は、その覚悟が必要です。それは、結婚しようとしていて他の異性とつきあい続けることが正しくないのと同じです。それは厳しい道ですが、主を第一にした時、家族の救いの道を主が開いて下さるとの約束があります(マルコ10:29~30)。

<私たちを、神と共に生きる者とするためです(38~39)>

 「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」と、主はさらに厳しい覚悟を、弟子たちに求められました。十字架を負って刑場に向かうことは、支配者の力に降伏し自分を殺す判決に従うことを意味します。しかし主のためにいのちを失なう十字架の道は、永遠のいのちを得る道でした。罪は自己中心です。自己中心の罪を捨てないままで、神と共に生きることはできません。その自己中心の自分を死に渡す時に、人は初めて神と共に生きる真の平和を持つことができるのです。十字架の道は、イエス様が死に至るまで従順に御父に従い、栄光をあらわされた道、イエス様が開かれた救いの道です(ピリピ2:7~11)。

<私たちを、信仰の内に歩ませるためです> 

多くの人は、聖書の教えは厳しく、神を近づき難い方と考えます。これが人々が福音を嫌う根本原因でしょう。しかし主には不可能はありません。十字架と復活の福音は、救いの証明であるだけでなく、「信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力」(ロマ1:16)です。イエス様を信じた時に、その人はキリストと共に罪に死に、キリストと共に永遠のいのちによみがえったのです。「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が肉にあって生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです」(ガラテヤ2:20)。この救いは、ただ自分の罪を悔い改め、イエス・キリストを救い主と信じる信仰のみによってもたらされます。

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