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2014/12/07

12月7日 テーマ「泣かなくてもよい」

主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。
ルカ7:13(11~17)

《この世界には不条理な悲しみがある》

悪を働き冷酷な行動をとる者に不幸が続くのは至極当然とも思う。だが、真面目に生きる者が次々と不幸に見舞われると、神はどうしてこんなむごい仕打ちをなさるのか、なぜ彼にだけこんな不幸が起こり続けるのか、と憤りさえ覚える。今日の聖書には、ナインという村に暮らす寡婦に起こった一人息子の死が記されている。女手一つで懸命の育て、やっと大人になろうとしたひとり息子が、突然死んでしまったという。何人もの息子のひとりであっても、親にとって我が子の死は悲しくつらい。この場合、母親は寡婦であり、息子は苦労して涙の中に育んで来た彼女の唯一の希望であっただろう。こんな不条理な不幸を神はなぜ許されたのか。彼女の信仰も激しく揺さぶられたことだろう。この埋葬の行列を止める力は誰にもない。神のなさりように納得できず、「神よ。なぜ、いつまでも拒み・・・御怒りを燃やされるのですか。」(詩篇74:1)と理由を問いたい。

《この世界にキリストが近づかれた》

この問いにはイエス・キリストはお答えにならず、ただその行列の正面に近づかれた。町は人間の力と知恵の象徴であり、自然の暴威や敵の来襲から民を守る防壁でもあった。だが人の技術や科学をもっても、罪と死から人を救い出すことは出来ない。その絶望と悲しみの行列に、イエスは天から下って近づかれた。「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。」(イザヤ9:2、3)との預言の成就である。それは神の側からの一方的な接近であり、人の側に何かの功績があったからではない。理由は、「かわいそうに思って(はらわたが千切れるような思いで)」という、私たちに対するキリストの深い同情、憐れみのゆえにであった。苦悩の中で人はキリストと出会う。

《この世界に希望をもたらされた》

このように私たちに近づかれるキリストを、私たちも感謝して迎え入れる。私たちは抱える問題に対応する力の限界を痛感し、平和や協調の世界も抱えている罪のゆえに崩れる危機を抱え不安がある。だが、そんな私たちの世界に、「泣かなくともよい。」と慰めの声をかけ、さらに「起きよ。」と復活の力を持つ全能者として関わってくださる。泣かざるを得ない、苦しみ悩まざるを得ない中にいる私たちに、キリストは近づいて来られる。そして私たちの悩める状況を一変させる。「起きよ」との言葉は、神の創造の御業を想起させる。「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた」(創世記1:3)とあるように、暗黒の、混沌としたカオスの世界に、神の言葉が響き渡ると、光が、天と地、大海と陸、木々と動物が、その言葉通りに形をとった。そしてキリストは、失意と悲しみの私たちの歩みに向って来られる。この方を迎えて、神からの言葉を聞いて受け入れ、そして従う時、私たちは、いのちの溢れ出ているキリストを迎えて、私たちも満たされる。涙を拭いて下さる方を信じ迎えよう(黙示録21:3、4)。

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