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2015/01/11

1月11日テーマ「私に約束された地に踏み出そう」

「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこのすべての民は立って、このヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの人々に与えようとしている地に行け。あなたがたが足の裏で踏む所はことごとく、わたしがモーセに約束したとおり、あなたがたに与えている。」   ヨシュア1:2~3(1~9)
神の約束は、イスラエルに対する土地だけではない。私たちに対しても多くの恵みと祝福の約束があり、私たちの受け取りを待っている。時間は、その約束のものを得ようと取り組み、得て喜び味わい、神を賛美し証するため与えられている。

《信仰者は神と約束を交わした者》 

キリストは信じる者に多くの祝福の約束をお与えくださった。その恵みの約束の数々を期待して私たちは生きる(へブル11:6)。列王記や歴代誌というイスラエル王国の歴史書は、神を忘れて国家の経済的繁栄や軍事強国に導いた王たちを評価せず、真摯な信仰に生きた王たちを詳細に紹介ししている。神が私たちを評価なさるのは、神の約束の担い手として、真摯に生きているかという点だけだ。約束を契約と言い換えた方が鮮明かも知れない。私たちはキリストを自分の生涯の主と仰ぎ、どのようなことがあろうとも信頼し仕えて行くことをバプテスマを受ける時に神と教会の兄姉たちと誓い合った身である。改めて、神と契約を交わした当事者である責任を覚え、その約束を果たそう。

《信仰者は神の約束の実現を証する者》

素晴らしい宝が約束されたとしても、与えられなければ意味がない。信仰とは神の約束を信じて歩み、神のみ業を経験することで、自分の願望を叶えてもらうための手段ではない。理科の公式を実験して確かめるように、私たちは、神の約束の言葉が真実であることを己の人生を賭けて実験し証明して行く立場にある。我が身を安全な所に置いて、頭や口先だけで聖書を学び信仰を論じても無意味だ。約束の地は、すでに与えられて私たちが足を踏み入れる時を待っている。手に出来るのは約束を信じそこに自分の足跡を記すことだ。イエスは、祝宴への招待のたとえ話で、人はみな準備された救いの恵みへの招待を、どうでもよい理由を挙げてみな拒絶してしまったと言われた。ではキリスト者の私たちはどうか。約束されている愛や寛容、忍耐と慈愛また親切、どれも皆不足気味、知恵に至ってはお粗末、奉仕の賜物を貧しい。私たちに託されている多くの分野を、大能の神の正義と恵みの統治下に組み入れてもらうため、信仰の足を伸ばす素晴らしい責務がある。

《信仰者は神の約束を味わい喜ぶ者》

キリストは終わりの時の天国での祝福だけを約束されたのではない。この地上でも「いっさいの権威」を有する神は、「潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注」(イザヤ44:3)ぐような変化を、モノにも、環境や人の心にも、起こされる。私たちキリスト者の役目は、そのような約束の成就を目にして味わい、感謝して証しすることにある。大きな変化には、時間と忍耐と努力を要する。神の力不足ではない。私たち信仰者の信仰の成長のため、神への信頼の度合いをさらに深めるためのことでもある。時には自分の内に湧き起こる不信と戦い、なおも神を信頼し続けた先で、約束のモノをいただく時に、信頼のステージが上がる。今生きているうちにではなく、完成は次の世代に委ねるという、信仰の大人の大プロジェクトもあることを覚えておこう。

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