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2015/02/01

2月1日 テーマ「人の子が来られたのは」

しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」   マルコ福音書10:43~45(32~45)
 イエスは、再びエルサレムに向って歩み始められた。過越しの祭りを祝うため、都もうでの巡礼者の群れがあちこちに見られる時期であった。だが、先に立って進まれるイエスは、十字架のあがないの死に向かう覚悟が外にも現れていたのか、「弟子たちは驚き、また、あとについて行く者たちは恐れを覚えた」(32節)とある。その弟子たちに、イエスはこれから起こる受難と復活を告げられた。三度目の予告であった。そんな時に、ヤコブとヨハネがイエスが栄光の座にお着きになる時、自分たちにイエスの左右の座をと願い出た。後でそれを知った弟子仲間は、自分たちを出し抜いてと怒ったという。ここから、イエスご自身が期待される弟子の姿を学ぼう。

《キリスト者とは給仕》

神を知らない世間の人が期待する「偉い人、支配者」、私たちが成功者と一目置くのは、何らかの権力があって、他の人に命じて思いのままに振る舞える人のことだが、キリスト者の目指すべき人物像は「みなに仕える人になる者」だと、イエスは言われる。この仕える人(デアコノス)とは、食卓の給仕人を指し、主人あるいは客席の人の世話をして助ける役を担う。あくまでも主人の引き立て役であって、陰にあって主人の必要にいち早く気づいてさりげなく必要なものをそろえて提供する。主人が万事順調に事を進められるように、時には注意や助言をして彼を助ける世話役で、決して自分の意見を押し通そうとか、相手を争い、自分の正しさを認めさせようとか、自分が上だなどという子供じみた思いを抱いては勤まらない。これが執事とも言われる、教会の光栄ある役職だ。相手の引き立て役に徹するキリスト者の姿を、私たちも目指そう(参照ヨハネ13:5、ピリピ2:3、4)。

《キリスト者とはしもべ》

最高の主の弟子とは、接する人誰に対しても「みなのしもべ」、奴隷(ドウロス)として行動できる人のことだと、イエスは言われた。奴隷には自分の自由な時間や持ち物はない。いのちも含め、すべては主人に属する。必要ならばそれらを総動員して主人に仕える。キリスト者は主がなさったように、神と隣人とのために自分のすべてを喜んで捧げて生きようとする自主の奴隷だ。私たちの主キリストにすべてを委ねて、新しい使命に喜んで献身している者だ(ガラテヤ2:20、Ⅰヨハネ4:11)。少々の犠牲を惜しんで損しないようにしようとのけちな思いから抜け出て、兄姉のために汗を流し、低く扱われることを光栄に思うようになりたい者だ。主人になろうとする者が多い世にあって。

《キリストご自身は》

主イエスは、ヤコブたちの願いをむげに拒絶せず、それを怒る他の弟子たちに愛想を尽かさず、なおも忍耐を持って慈しんで愛し続けられる。出世争いに心を占領され、彼らのために十字架の死に向かおうとする師イエスの心を知らない無頓着な弟子たちのために、先き立ってなおも進まれる。私たちはそのようなキリストに見守られて今を生かされている。勇気を持って給仕人、しもべを目指そう

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