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2015/02/15

2月15日「私をあわれんでください」

ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください。」と叫び始めた。そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください。」と叫び立てた。
マルコ10:47~48(46~52)
エリコに一泊し、エルサレムに向かおうと町を出たところに、過ぎ越しの祭りに向かう巡礼者目当ての物乞いたちが道端に並んでうずくまっていた。そのひとりに盲人の乞食バルテマイがいた。この惨めな盲人の物乞いから、以下のことを学ぶ。

《彼は盲人であったが》

キリストの前で、自分はよく見えるとは誰も言えない。見えると思い込んでいる人ほど、目が見えていないと警告されている(ヨハネ9:41)。彼は盲人であったが、前を通った方がナザレのイエスだと聞くと、彼は「ダビデの子」と叫んで呼びかけ、制止されてもメシヤのあわれみを必死に願い続けた。彼の肉の目は盲目だったが、霊の目は見えていて、イエスを救い主だと信じていたのである。
彼は目が見えない故に、多くの機会が奪われ、排除され、取り残されて乞食となった。人から蔑まれ、侮られ、惨めな人生を辿って来た。しかし、キリストはその彼を憐れんで足を止め、「あの人を呼んできなさい」と弟子を遣わし、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と声をかけてくださった(詩篇50:15、ホセア11:8)。「心配しないでよい」は、「安心して」「喜んで、喜び躍って」とも訳せる語だ。主はそのように扱ってくださるからだ。

《イエスに応えて》

バルテマイは主イエスの呼びかけに、盲目のまま、即座に応じて上着(外套)を脱ぎ捨て、立ち上がってイエスのところに来たとある。イエスが行かず、バルテマイが主を求めて自分の足で来ることを求められた。熱心に求めるなら、神は必ずお応えになる。その応答の経験を彼にさせたかったのかも知れない(エレミヤ29:12~13)。イエスの前に立っただけで、彼は感動でいっぱいだったのだろう。イエスに、改めて何を求めるかを聞かれた彼は、「目が見えるようになることです」と答えた。その願いに、イエスは「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」とだけ言われた。「あなたは自由に歩ける、信仰によって自分の道を自由に歩ける」と。目が開かれる以上に、信仰の有無こそが自由を与えてくれるものだ(マタイ9:22)。信じて求め、信じて立って従うことこそが大事だ。

《イエスについて行った》

イエスを求めたバルテマイに、イエスは公生涯の最後の奇跡を行われた。彼の目が開かれ、イエスに従って行く者に変えられた奇跡である。目が見えるようになった彼は、これまで行けず出来なかった事柄に進もうとはせず、「イエスの行かれる所について行った」(52節)とある。エルサレムでの苦難に向かうイエスに、彼は従う者になった。病が癒され、問題が解決されたらそれで終わり、ではない。その解放された力と機会とを、救い主イエスに捧げてこそ生きてくる。金持ちの青年もイエスの元に来たがイエスに従い行くことを断念し、使徒たちも繰り返し教えられたが理解できず出世争いをしている。だが彼は、十字架に向かうイエスに喜んで従う弟子となった。その後の彼の活躍が聖書に名を残したのであろう。

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