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2015/03/08

3月8日テーマ「祈りの家か強盗の巣か」

そして、彼らに教えて言われた。「『わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。』と書いてあるではありませんか。それなのに、あなたがたはそれを強盗の巣にしたのです。」祭司長、律法学者たちは聞いて、どのようにしてイエスを殺そうかと相談した。イエスを恐れたからであった。なぜなら、群衆がみなイエスの教えに驚嘆していたからである。     マタイ福音書11:17、18(12~18)

イエスのエルサレム入城は、旧約に預言されている「主の日」の開始、つまり神が王として信仰の民の救済と不信の人々の審判が開始されたことを意味した。

《実のないいちじく》 

翌朝、再びエルサレムに向う途中、空腹のイエスは、いちじくの木に実を求めたがなかったので、怒って木を呪われた。実りの季節でなかったのだから不当な扱いとも思える。これはメシヤとしてご自分の民への警告の行動で、葉だけを見事に茂らせているが、肝心の実を結んでいないイスラエルの民への審判を意味する(ルカ13:6~9参照)。私たちは、いかなる時でも常に信仰という実を結んでいることが求められている。形だけの信仰であってはならない。神を畏れ敬い、キリストの教えに留まって実を結んでいるかが厳しく問われる(ヨハネ15:1~9)。

《祈りのない神の家》 

過越しや刈入れ、また仮庵の祭りを、イスラエルの男子は神殿に詣でて守ることが命じられていた(申命記16:16)。参詣者は、境内の異邦人の庭にある店で、鳩や羊の犠牲の動物を調達し、ローマの硬貨を古いユダヤ硬貨に両替してもらって捧げていた。それらは参詣者の便宜を計るものだったが、いつしか商売化し売り買いの言葉が飛び交う取引となり、肝心の宮の主である神への畏敬の念を消し、礼拝をささげ祈るという思いを奪ってしまっていた。神殿の主イエスは、この有様に憤慨し、店を壊し商売人たちを追い出された。異邦人の庭は、救い主を迎える時に、異邦人たちの祈りの家になる場所だと指摘し(イザヤ56:4~8)、今そこを強盗の巣にしていると非難なさった。神への祈りを忘れると、人は欲望をのさばらせ人から奪い取る強盗に成り下がると言われた。信仰者はみな「生ける神の宮」(Ⅱコリント6:16)だ。自分の利得や好みを優先させる強盗の巣にさせてはならない。

《メシヤ殺害を企てる宗教家》 

祭司長や律法学者たちは、自分たちの問題点をイエスに指摘され、反省するどころか逆にイエスを抹殺すること相談し始めた。宗教の指導者を任じる彼らは、祈って神の御心を問い、その指示に従うことを忘れ、己の感情と欲望のままに行動する強盗と化していた。恐ろしい事だが、祈りを忘れ、神への敬虔な思いを失うと、人はしばしば己の名誉や利害欲得のため、信仰の名のもとに人を苦しめ殺めることさえ辞さない強盗となる。それは遠い昔の世界のことではない、今も私たちの教会に、そして私たち各自に起こることでもある。教会は交わりと学びの家である前に、礼拝と祈りの家として聖別し、自分が神殿であって神に祈る者に召されていることを忘れてはならない(Ⅰコリント6:19)。

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