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2015/04/12

4月12日メッセージ「少しも疑わずに信じる」

イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」 マルコ福音書11:22~24(19~25)

 《キリストは朝早くに》

神はなかなか動いてくれない、祈りに答えてくれるのも遅い、キリスト者であってもそのように思い込んで、神に祈るよりも人の手を借りる手はずを性急に始めてしまう。だが、主イエスは朝早く、エルサレムの城門の開く日の出時を待ちかねて主の宮に入り、礼拝の場をきよめ人々を待ち、神の恵みの言葉を伝えようと私たちを待っておられる。私たちは朝、主が起きてすでに整えておられる世界に目覚めるのだ。朝はキリストによって開かれる。「夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。」(詩篇30:5、参照詩篇90:14、143:8)。キリストの朝の招きに、期待して一日を、また一週を始めよう。

《疑わない信仰を》

前日イエスが、嘆かれたいちじくの木が枯れているのを見て、ペテロは驚いた。葉を茂らせても肝心の実を付けず、枯れ木とされたいちじくの木は、過越しの祭りで多くの参拝者を集め、犠牲を献げ祈りの声を轟かせる神殿とその民への警告であった。彼らの祭儀は、神への畏れも感謝もない、単なる習慣化した宗教行事に過ぎなかった。恐るべきは枯らす神、また死人を生かす神、必要なら山をも動かす全能の神だ。山とは、私たちを不安と無力感に落とす動かしがたい現実や、信仰を怯ませる罪などを指すのだろうが、神はそれらを処理なさる。「神を信じなさい」の直訳は「神の信仰を持て」で、「神のお求めになる(または、神がお与えになる)信仰を持て」を意味する。それが、「心の中で疑わず」(新共同訳「少しも疑わず」)、祈ったなら「そのとおりになる、すでに受けたと信じる」信仰だ。祈るなら、神がそれを叶えてくださる力を十分に持っておられることを信じ、疑わないことだ。「疑う」とは「判別する」の意で、神の言葉を持ち出して必ずその通りになると祈りながら、そうはならないのではないか、との別の判断を持ち出すことだ。この疑いの信仰を捨てよう。口で祈る言葉と別の心を内に抱えてはならない(ヤコブ1:6~8)。

《人への恨み事を赦して》

当時の人は立って祈ったようで、欧州の教会では礼拝の席に着く前に立って祈る習慣が今もあると聞く。礼拝奉仕に携わる者は、礼拝前に罪を悔い改める祈りを共に捧げてから奉仕にあたるという。赦しの神に礼拝をささげるのに、人を赦さないままに奉仕をすることは出来ない。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。」(マタイ6:14、15)との主イエスの言葉を思い出し、赦しの祈りを捧げ、和解の手を差し出してから神の前に出て祝福を受けられるように整えよう(マタイ5:23、24)。恨んだり恨まれたりしている自分の罪に気づいて、相手を赦し、また赦しを乞い、その上で主イエスの赦しの恵みの中に飛び込むことで、そこに、私たちの解放、また自由がある。

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