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2015/05/10

5月10日メッセージ「捨てた石が礎石となられ」

その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう。』と言って、最後にその息子を遣わした。すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。        マルコ12:6~8(1~12)

《神は葡萄畑を託された》

信仰の民はよくぶどう畑に譬えられています(イザヤ5:1~7)。今朝の聖書は、農園主が畑を農夫たちに託して旅に出かけたという譬えです。主人は、数年後に確実に収穫が得られるよう準備万端整えた上で、その農園を農夫たちに預けて旅に出かけました(レビ19:23~25)。農夫たちは実りの約束された畑をコツコツ管理するだけで収穫は十分なはずです。神が私たちに預けられた人生は、決して不毛なものではありません。家庭、職場、時代、自分自身や自分のいのちも、豊かな実りを得られるように神が手を入れ整えた上で、私たちに託されたものです。決して干からびた不毛の野を与えられているのではありません。実りが約束された土地に生きているのです(詩16:6)。神への信頼をもって託された勤めに励む者に、虚無や絶望また愚痴は湧きません。

《神はしもべたちを遣わされた》

収穫期を迎え、農園主はその実りを農夫たちと喜び合い一部を貰おうと使者たちを派遣します。しかし農夫たちは、何も持たせず追い返し、暴力と侮辱を加え、殺害しました。実り豊かな農園を預けてくれた方への尊敬も感謝もありません。続いて多くのしもべを何年も間、忍耐深く、農園主は農夫たちに派遣し続けたが、彼らに聞く耳は無く、いつか農園は自分たちのものと思い込んでいます。預言者の言葉も、余計なおせっかいとしか受け取らず、「彼らは、主のみわざを見向きもせず、御手のなされたことを見もしない」(イザヤ5:12)で、収穫は自分たちの努力の結果だと勘違いしているのです。おごり高ぶって主の祝福のみわざを認めようとはせず、神を軽んじ滅びの道を辿り始めている彼らに、神はなおも信頼を寄せ、その応答を願って使者を送り続けます(エレミヤ7:25)。ここに神の深い悲しみと愛が見えます(マタイ23:37)。

《神は捨てられた石を据えられた》

農園主の神は、なおも農夫たちの応答を願って、危険な役目を息子に託します。無慈悲で忘恩の危険な連中であることは承知しているはずなのに、農園主は「愛するひとり息子」を最後に派遣しました。農夫たちはこの方を殺害し、ぶどう園の外、エルサレム城外に投げ捨てました。神殿の主である方が、そこに迎えられて崇められるどころか、殺されて排除されました。「家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。」(10節、詩118:22)との詩は、大工や左官たち建築の専門家たちが、肝心の土台石を不要と判断し排除して建てた家に、神が助けの手を伸べてなくてならない土台石キリストを据えてくださることを描写しています。神は農夫たちのように頑なに神に反抗した私たちを死に渡さず、代わりに御子を死に渡して正義を貫き、私たちの救いと希望の礎石としてキリストを据えてくださったのです(詩118:17~24)。感謝し、喜びましょう。

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