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2015/06/06

犠牲や抑制のない信仰は空疎だ

その祭りの七日間、彼は全焼のいけにえとして傷のない七頭の雄牛と七頭の雄羊を、七日間、毎日、主にささげなければならない。また一頭の雄やぎを、罪のためのいけにえとして、毎日ささげなければならない。 エゼキエル45:23
 このような神の定めを一方的に押し付けられるようなことに私たちは反発し、信仰は自由だ、奉げものも自主的に、心からささげるものでなければ奉げものにはならないのではないかと、屁理屈をこねる。 罪深い私たちの自主的な思いなどは、容易に安易な方向に走り出し、神を忘れて放縦な生活に埋没する。だからこそ、神は私たちの営みの中に、日と時を定め、わがままで損得に走る私たちの日常生活に、適度の犠牲を払うことを実行させ、上からの祝福を受けての今であることを思う時を与えてくださるのだ。 犠牲や抑制のない信仰は、空疎な観念に留まる。

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