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2015/07/12

7月12日メッセージ「主イエスの称賛される信仰」

みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。
マルコ12:44(35~44)

《誤った信仰理解》

律法学者たちは、旧約聖書に預言されているメシヤ(イザヤ9:6~7、エレミヤ23:5~6等)を、祖国を異邦人の支配から解放しダビデ王国を再興する地上的王と勘違いしていた。イエスは、詩篇110篇を引用し、ダビデはメシヤを「私の主」と呼び、神は彼に「わたしの右の座に着いていなさい」と言われて天の王座に着かせるあるではないか、問われた。そんな偏見でメシヤを理解しイエスを排除しようとしている律法学者たちを、彼は批判なさった。彼らの理解を越えて、真のメシヤ・イエスは十字架と復活を通して、霊の敵を打ち破って神の右に座し、万物を統治なさる真の王である(マタイ28:18、使徒2:34、ローマ1:3~4)。人はしばしば偏見で物事を判断する。今の自分に好都合の考えに囚われ、これまでの理解を絶対化してはならない。常に心を開いて聖書に聞き、主イエスの教えと聖霊の導きに従おう。人の教えにも謙虚に学ぶ者でありたい。

《見栄を飾る信仰》

主イエスは、律法学者たちの偽善性を厳しく指摘し、「気を付けなさい」と指導を受ける群衆の側に注意を促された。ただ一人の教師キリストを常に求め続けることだ(マタイ23:10)。キリストの権威を仰ぐとき、教師の権威を消え失せる。また律法学者の偽善と虚栄を他人事として批判すれば済むものではない。彼らは聖書研究に生涯を献げて研鑚に励み、寡婦や孤児の支援にも努力していた。でも、それら信仰的行為が、いつしか形式化し、人に良い評価を得ようと見えを飾る(「表向きの理由、言い訳」の意)長い祈りを付すようになっていたのだろう。人の評価を気にし始めると、私たちの心はキリストに向わず、人の目と評価に一喜一憂、「如何に見せるか」に重点を置くようになり、信仰は崩壊する。真実な信仰は、キリストの権威にひたすらひれ伏すことだ(Ⅰコリント4:3~5)。

《レプタ二枚の信仰》》

ここに、律法学者たちのような人を感心させる大仰な信仰的行動とは真逆の、恥ずかしいほど貧しいやもめの献金に、イエスは目をお留めになった。そして弟子たちをわざわざ呼び寄せて言われた。「この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました」と。日本円で百円程か、遠く神殿にまで足を運んで捧げるには小さすぎる額だ。しかし、主イエスはその献金に目を留め、やもめに感心された。神は、金持ちの大金ではなく、弱者の信仰の小さな業に込められた神への誠実を見落さない。わずかなので評価されたのではない。「みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」(44節)と評された。献金の額は小さいが全部をささげた行為であった。でも、大きな自己犠牲を払った悲壮な行為ではない。私たちに一切を与えて潤し給う神への、喜ばしい感謝であった。そして、持っているものにではなく、神に信頼して生きている証しの行為でもあった。

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