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2015/10/11

10月11日メッセージ

「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」
マルコ14:36(32~42)

主イエスのゲッセマネの園での祈りのことばと姿勢を、私たちが理解することは難しい。しかし、イエスはご自分の苦悶の姿を弟子たちにお見せになった。私たちにも、この記事を真剣に読む義務がある。教えられることを挙げてみよう。

《深く恐れ》

恐怖の勝利者、平和の保証人であるはずのイエスが、恐れおののき、悶えられたとある(33節)。慰めを与える方が慰めを必要とされている。そしてその姿を弟子たちから隠すことをなさらず、かえって弟子たちを証人として目を覚ましているようにと言われた。私たちも、この事実をはっきりと知らなければならない。「もだえる」とは「人々から切り離されている」との意味合いの言葉だという。神と人とから捨てられ、不安におののかざるを得ない状態を示す。生ける神からも切り離され、やがて「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)と叫ぶ状態に置かれておられる。主はここで「まことの人」となられたのである。「悲しみのあまり死ぬほど」(34節)と主は弟子たちに訴えておられる。

《この杯を取りのけて

イエスは「地面にひれ伏し、もしできることなら」(35節)と、地に身を伏せて祈られた。それは重大な罪に打たれて祈ったダビデのように(Ⅱサムエル12:16)罪人の中に加わられたのだろう。続く「悲しみのあまり死ぬほどです」との言葉も、「死にたくない」の意ではない。昔、暑さ除けを失ったヨナが、「死んだほうがまし」とつぶやいた際、神は「右も左もわきまえない12万以上の人間と、数多くの家畜がいるではないか」と諭し、神ご自身の、罪人を惜しみ、彼らを助けたいと切実に願っておられる思いを告げられた(ヨナ4:8~11)。主イエスは私たちの罪のために、ここに悲しみ悶えておられる。そして「この時が過ぎ去るように」(35節)とは、受難の時が過ぎて、救済の成就の時を迎えられるようにとの願いである。ただ、受けようとする苦難は大きい。「アバ、父よ。」と、子を愛し最善をなさる父の神と信頼しつつ、「この杯を取りのけてください」(36節)とも願わざるを得ない。この苦しみを避けたいが、しかし、なおそれを引き受けようと苦闘される主を、私たちは直視しなければならない。「ゲッセマネでキリストは、彼の欲したまわないことを、最も熱烈な意欲をもって成就したもうた。」(ルター)。

《弟子たちの眠り》

イエスの苦闘の祈りのそばで、弟子たちは「私が祈る間、ここにすわっていなさい。ここを離れないで、目を覚ましていなさい」(32、34節)と言われたが、眠りこけている。「心が燃えていても、肉体は弱い」(38節)は「心が喜んで備えをしている。だが肉体はもろい」の意で、信仰的な姿勢の備えも肉体の弱さから崩れる。主は眠らずに祈り続けて、喜んで神のみこころのままにと、備えをなさった。目を覚ますことが出来なかったのは、目を覚まさなければ、祈らなければどうしようもないほどの事態になるのだという気持ちがなかったからとも言える。「神の頼らずとも」の姿勢が、自分への自信であり、祈りの備えを省く。そのような私たちのために、主が苦闘なさり、そして十字架の時に向われた(41節)。目を覚まして祈るものとなろう。

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