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2015/10/18

10月18日メッセージ

すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。
マルコ14:50(43~52)

《ユダの裏切り》

ゲッセマネでの祈りを終えた主イエスは、「人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。」(41、42節)と弟子たちを促された。そこに当時のユダヤ社会の指導者たち、祭司長と律法学者および長老たちがキリスト排除で一致し彼を捕縛するための一団を、ユダが案内して来た。それは8:31の預言の成就である。そしてイエスは、ユダの裏切りを承知で彼を十二の弟子に選ばれた(ヨハネ6:70)。裏切る最中の彼を、「十二弟子のひとり」となお記している。主の近くに招かれその恵みと愛とを十分に注がれていても、それが信仰を保証するものではない。44節では「裏切る者」と言い直されたユダは、すぐにイエスに近寄り、躊躇なく「先生」と呼びかけ、愛と尊敬のしるしの接吻を念入りにし(45節の「口づけ」はそのような意)、暗闇の中でも誰がイエスかを知らせるに十分なしるしに使って教えた。悪魔的な計画は思い通りに成功し、悪の計画が進行中に見える。そうではない。救い主が「罪人たちの手に渡される」(41節、参照10:33)という神の救いの計画が、神の支配下で進行していることを教えている。

《みながイエスを見捨てて》

イエスが弟子たちを選んだのは、「彼らを身近に置き」訓練し、福音宣教に派遣するためであった(3章14節)。ペテロは、この時イエスの「そばに立っていた」(47節)が、弟子とは呼ばれていない。イエスが教えられた聖書も理解できず、祈りを欠いた弟子たちは、主が置かれている状況がわからず、単なる行きづりの、同情的な野次馬同様であった。恐怖が襲えば、すぐに主を見捨てて逃げ出し四散する烏合の衆だ。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」(29、31節)と、ペテロや弟子たちは決意を表明した。だが、神の力に委ねず、自力を当てにした信仰は脆い。剣で切りかかったのも、恐怖にかられた蛮勇に過ぎない。死の危険が迫ると、弟子たち「みながイエスを見捨てて、逃げてしまった」(50節)。「ある青年」とは、本福音書の著者だと思われる。マルコは自分のことを挿入した理由は不明だが、裏切った弟子やマルコたちが、主イエスに再び召し出され、初代教会形成に大きな役割を果たしている。

《先立つイエス》

このこの混乱した場面の主導者は、捕り手の一団ではなく、イエスご自身であった。「立ちなさい。さあ、行くのです。」と先立たれたイエスは、羊飼いのご自分が捕われて処刑されるが、復活の後にガリラヤに行かれることを告げておられた(14:27、28)。権力者から派遣された武装集団が、弟子たちを震え上がらせて追い払い、イエスを捕えて引き立てて行く。数と力と権力を持ったこの一団がこの場面を支配しているように見える。しかし、彼らに静かに身を任せておられるイエスが、父なる神の計画を進めておらたのだ。十字架への道が、人を救う唯一の道であることを承知されたイエスは、「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」(49節)と、受難の道へと進んで行かれる。神の民ユダヤの支配者たちはイエス殺害の実力行使を開始し、手塩にかけて育てた弟子たちも皆、我が身可愛さにイエスを見捨てて逃げて去った。そのような罪深い人間に救いを与えようと、イエスは十字架に向って下さったのである(ロマ5:8)。

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