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2015/11/22

11月22日メッセージ「我らの王は十字架に」

イエスの罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。
マルコ15:26(21~32)

《主は聖書の通りに》 

主イエスは、ご自分がユダヤ人の王であると、総督ピラトに言われたが(2節)、ピラトはそれをまともに受取ってはいない。だが、自分を脅したユダヤ人たちへの腹いせで、「ユダヤ人の王」との罪状札を掲げさせ、この哀れな男がお前たちにお似合いの王だ、と彼らを愚弄した。祭司長や律法学者たちは、「お前が今十字架から降りて見せるなら、イスラエルの王だと信じてやろう」と、イエスを嘲った。だがイエスは、聖書の預言(詩篇22:1~18、イザヤ53:12他)の通りに、ご自分の民の救う真のユダヤの王として十字架の苦難と侮蔑を少しも避けることなく(23節)、すべて引き受けてくださった。福音書はイエスの苦悩の詳細には特に言及せず、これらの事件がすべて聖書のことば通りに、御子が王として、ご自分の民を救うため呪われた者となっていのちをお捨てくださったことを教える(ピリピ2:6~11、ヨハネ3:16)。主の十字架は、神の意思であった。

《主は嘲る民のために》 

ゴルゴダ(どくろ)と呼ばれる処刑場に十字架は立てられた。主イエスは、罪に汚れ惨めな敗残者として助けを求める者の所に、身を置かれる。兵士たちはイエスを十字架につけるとすぐ、その下で役得の処刑されたイエスの持ち物を求めてくじ引きを始めた(24節)。他人の死に対する兵士たちの無慈悲さ無関心に驚く。しかし彼らの王は、そんな彼らのためにひとり死に向かっておられた。ユダヤ人たちは、イエスを「神殿を打ち壊して三日で建てる人よ」(29節)と罵声を浴びせ、自分を救ってみろと嘲った。彼らの王は、十字架上で贖いの死を遂げ、三日の後に、彼らが神と会いまみえて祈ることの出来る真の礼拝所を設けようとしておられたのだが。主は、十字架から降りて自分を救え、とはやし立てる民の指導者たちのために、彼らの侮蔑と頑なな不信の罪の赦しために、十字架から降りることなく留まってくださった。御子は自らを罪人の立場に置いて、私たちの咎をすべて引き受け、呪われた者として死んでくださったのだ(Ⅱコリント5:21)。

《主はシモンを強いて》

 十字架という重大事件の中で、クレネ人シモンがイエスの十字架を担ぐ肩代わりをしたことは取るに足らないことに思える。だがマルコだけでなくマタイ、ルカの福音書もこれを記している。イエスは疲労困憊の中で十字架を負っておられ、兵士たちの鞭や脅しにも動けぬほどの極限状態にあったことを教えている。主イエスの肩には、木の重さ以上に人類の罪の重さが掛かっていたことだろう。北アフリカから過ぎ越しの祭りでエルサレムに来ていたシモンは、ローマ兵の命令で無理やりに十字架を背負わされた。この「負う」という語は、「自分の十字架を負い、そしてわたしについてきなさい。」(8:3)に用いられている。シモンは強いられてではあるが、十字架を負って主とともに歩いたことになる。彼の息子「アレキサンデルとルポス」が読者たちも知っているクリスチャンだとすると、彼は後に主を信じ、息子たちにも福音を伝えたのであろう。神はこのような形で、求めていなかった人をもご自分の救いに招かれる(イザヤ65:1)。今負わせられている重荷を嘆くだけでなく、その災いをもやがて恵みに変えたもう神を信じて背負って行こう。

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