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2016/07/10

7月10日「悪魔の誘惑に陥らせず        主の祈り(7)」

私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。        
マタイ6:13

《誘惑と試練の中に生きる》

主イエスは、私たちに必要な祈りとし、日常の必要な糧、神また隣人との関係を生かす赦し、そして誘惑からの守りを教えてくださった。「試み」は誘惑をも意味する。日常出会うすべてが、私たちの受け取り方次第で誘惑にも試練にもなる。人は常に選択を迫られ、その折々の自由な決断によって生きる。神の導きに従って選ぶなら、それは試練となりその人の信仰を育む。しかし、世間体や損得などの世的な基準によっての選択ならば、悪魔の誘惑に陥ったこととなる。大事なことは、すべてを神から試練と受け止め、神の導きと助けを祈って対処しようとするなら、問題は私たちの霊的成長を促すものとなる(ヤコブ1:12~13、Ⅰコリント15:58)。試みは、神に御旨に従おうとしているのか、悪魔の偽りに隷属しているのか、私たちの本性を露わにする。洪水にあった家が、砂の上であったか岩の上だったかを示すようにである(マタイ7:24~27)。

《誘惑は私一人の戦いではない》

「会わる」とは、「引っ張って行く」の意だが、人は困難に遭遇すると「自分ひとりだけ苦しんでいる」かのような境地に陥る。だが、主イエスを襲った誘惑は「御霊に導かれて」(マタイ4:1)、ヨブの苦悩も神の許可の上でのこと(ヨブ2:6)、弟子たちが主の十字架の死という衝撃的な事態に戸惑うことも神の許しがあってのことだ(ルカ22:31)。悪魔との戦いは、私たちだけの戦いではない。孤立感から自己憐憫に陥ってはならない。困難も、私たちを愛し弱さを承知しておられる神の許しの中でのことだ(Ⅰコリント10:13)。「主ご自身が、あなたとともに進まれるからだ。主はあなたを見放さず、あなたを見捨てない」(申命記31:6)との約束を信じていよう。

《誘惑との戦いの武器は神の言葉》

悪魔は偽る特性があり、人にこの世の力や栄光の大きさを信じ込ませ、神の存在と働きを小さく見せる。苦悩が大きい時には、神の力を小さく見せ、神も助けることができないと思わせる。また、富や力が大きければ、神なしでも十分にやって行けると思い込ませる。このような誤った考えを崩すのは、神のことば、聖書だ。状況がどうあろうと、聖書のことばは変わらず、私たちを誤謬から解放し、信仰的立場を保証し、立つべき真実の立場を提供して励ます。荒野の誘惑で、主イエスは、「・・・と書いてある」(マタイ4:4、7、10)と聖書の言葉を示して悪魔の惑わしを拒絶なさった。聖書の言葉には、悪魔をも退かせる力がある(ヘブル4:12)。
《誘惑に対抗する戦術の祈り》私たちは間違いやすく、無力で愚かだ。自力で誘惑に対抗することは不可能だ。だからこそ、主イエスはこの祈りを教えてくださった(マルコ14:38)。知恵と助けを求めて祈るが、それは神が戦ってくださることを願ってのことで、自分が全面的に従う前提での祈りだ。己の弱さを自覚し、神こそが決定的な救済者だと信じることによって、真剣な祈りが始められる。私たちの弱さを承知の主が、すでに祈っておられるのだから(ルカ22:32)。

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