今朝の聖句

2016/08/20

神は私たちを生かす方

見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。 マラキ4:5
 旧約聖書は、厳しい審判の神の姿以上に、恵みと慈しみの神を教えてくれる。確かに神は、罪を重ね背き続ける民を容認はなさらない。だが、旧約聖書の最後の言葉が、「わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないため」に、預言者を遣わして「父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる」(6節)である。 神は悪を憎みそれを徹底的に排除なさろうと、審判の「主の大いなる恐ろしい日」を予定なさる。だが同時に、深い配慮と愛をもって私たちを何としても救い出そうと関わってくださる方だ。警告だけにとどまらず、御子キリストと聖霊のお働きを通して、私たちに、神を父と仰ぎ、感謝と信頼をもって仕える子の心をお与えくださる。私たちは、その実現を新約聖書に見ることが出来る。 聖書は希望の書であり、神は私たちを回復して生かす方だ。

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2016/08/19

この父のもとにすべてを委ねよう

彼らは、わたしのものとなる。──万軍の主は仰せられる──わたしが事を行う日に、わたしの宝となる。人が自分に仕える子をあわれむように、わたしは彼らをあわれむ。 マラキ3:17
 「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、何の益になろう」(14節)。信じても神は何もしてくれないではないか、信仰に何の意味があるのか。  当時の民は生ける愛の神を見失い、神に捧げるべき十分の一献金を己のふところに入れ、「ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる」(8節)と神に「盗人」と指摘された。  神に献金をささげて礼拝を守り、誠実に仕えることは、義務ではなく嬉しいことだ。私たちを「わたしの宝」と呼んで慈しんでくださる父のような神の祝福の中に生かされることを願ってのこと、この父のもとに身を委ねよう。

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2016/08/18

初めの思いを最後まで

彼の口には真理の教えがあり、彼のくちびるには不正がなかった。平和と公正のうちに、彼はわたしとともに歩み、多くの者を罪から立ち返らせた。 マラキ2:6
 神は昔レビを祭司に任じ、レビはその使命を畏れ喜び、誠実に果たそうと努めた。当初のレビ族の祭司たちの初々しい、懸命の奉仕ぶりがここに紹介されている。 ところが、今はどうか。「しかし、あなたがたは道からはずれ、多くの者を教えによってつまずかせ、レビとの契約をそこなった」(8節)と神は嘆かれ、「 わたしもまた、あなたがたを、すべての民にさげすまれ、軽んじられる者とする。あなたがたがわたしの道を守らず、えこひいきをして教えたからだ」(9節)と宣告された。 私たちの信仰の歩みはどうだろうか。救われた時のあの喜びを今も覚えているだろうか。バプテスマを受けた時の感動、献身した時の決心などからは遠く離れた冷めた思いと生活をしてはいないだろうか。たとえ誰かがそうであっても、私自身は神のしもべとして誠実に歩んで行きたいものだ。

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2016/08/17

神の祝福の有無こそが、もっとも大事なこと

あなたがたは、盲目の獣をいけにえにささげるが、それは悪いことではないか。足のなえたものや病気のものをささげるのは、悪いことではないか。さあ、あなたの総督のところにそれを差し出してみよ。彼はあなたをよみし、あなたを受け入れるだろうか。──万軍の主は仰せられる── マラキ1:8
 自分の損得に関わることなら、多少の犠牲を払っても相手の好意を得ようと図る。時の為政者から好都合な許可を得ようと、立派な羊を揃えて贈り物とする。だが、真の神に対しては売り物にもならないような欠陥のあるささげるのに、何のためらいも覚えない。それは神を軽んじている証拠ではないか、と預言者は指摘する。 振り反って、私たちの態度はどうか。人への配慮以上に、神の意向を重く見ているのだろうか。人のご機嫌がどうであれ、神の祝福の有無こそが大事なことだと承知しているのだろうか。それが信仰者の当たり前の姿勢であり、私たちの人生を決定する要因なのだから。

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2016/08/16

主が喜んで受け入れてくださるのだから

エルサレムとユダのすべてのなべは、万軍の主への聖なるものとなる。いけにえをささげる者はみな来て、その中から取り、それで煮るようになる。その日、万軍の主の宮にはもう商人がいなくなる。 ゼカリヤ14:21
 終わりの日には、主はすべてを聖めて祝福の中に置かれる。人が用いる俗なるものも、神は神殿に捧げることのできる聖なるものとして神は受け入れてくださる。 それは今、キリストにおいて可能となった。私たち罪深い者の行為をも、キリストの名によってささげるなら、神はご自分に相応しいものとして受け切れてくださる。万事を、ものであれ好意であれ、神に喜ばれる聖なるものとして奉げよう。すべての日が聖なるもの、すべての行為が神の御前に相応しく、喜ばれるものとして受け取られるように努めよう。 主が喜んで受け入れてくださるのだから。

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2016/08/15

苦難は主の予定の訓練のコース

わたしは、その三分の一を火の中に入れ、銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす。彼らはわたしの名を呼び、わたしは彼らに答える。わたしは「これはわたしの民」と言い、彼らは「主は私の神」と言う。 ゼカリヤ13:9
 「子よ。」と呼びかければ即座に「父よ。」と返って来る、「打てば響く」強い信頼に満ちた関係を、神はご自分の民との間に求めておられる。  そのような好ましい関係が構築されるには、真の神以外の偶像や権力また富などに頼もうとする民の心の純化を必要とする。それはキリストの贖いによる罪の赦しと聖霊の助けによる聖化であり、「銀を練るように彼らを練り、金をためすように彼らをためす」という苦難を通しての精錬の過程を必要とする。  次々と起こる試練を厭ってはならない。主のお与えになる課題としてしっかりと受け止めて行こう。

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2016/08/13

恐ろしい宣告とキリストのよる祝福の道

私はもう、あなたがたを飼わない。死にたい者は死ね。隠されたい者は隠されよ。残りの者は、互いに相手の肉を食べるがよい。 ゼカリヤ11:9
 この預言者ゼカリヤの言葉は、己の利得を図るだけで神を忘れた民とその指導者たちに対する忍耐も限界に達して、投げ出す際のセリフである。そしてそれは、神ご自身の心を表現した言葉でもある。確かに神は忍耐の神であられるが、悪を容認し続ける方ではなく、人が侮ってよい方ではない。  「わたしが、もう、この地の住民を惜しまないからだ」(6節)と、神が言わざるを得ないような罪と不信を、私たちは重ねてはならない。このゼカリヤの預言は、ユダヤの民の歴史の中に成就し、紀元70年、信仰の民の国家は消滅する。「私は、私の杖、慈愛の杖を取り上げ、それを折った。私がすべての民と結んだ私の契約を破るためである」(10節)との恐ろしい宣告が記されている。  だが、主イエス・キリストによって恵みの契約が再び与えられていることを、心から感謝し、信仰を篤くしたいものだ。

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2016/08/12

主の名によって歩き回る

彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る。──主の御告げ── ゼカリヤ10:12
 ユダは小国であり、現在はペルシャの支配下に置かれ、経済的にも政治的にも停滞していた。だが、神は、その疲弊した民を祝福し、強め助けようと、「万軍の主はご自分の群れであるユダの家を訪れ、彼らを戦場のすばらしい馬のようにされる」(3節)と励まし、「わたしはユダの家を強め、ヨセフの家を救う。わたしは彼らを連れ戻す。わたしが彼らをあわれむからだ。彼らは、わたしに捨てられなかった者のようになる。わたしが、彼らの神、主であり、彼らに答えるからだ」(6節)と約束された。  このように話しかけてくださる主に、全面的に信頼し、「主の名によって歩き回る」信仰者でありたいものだ。

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2016/08/11

どんな状況下に置かれても、希望を持ち続けよう

望みを持つ捕らわれ人よ。とりでに帰れ。わたしは、きょうもまた告げ知らせる。わたしは二倍のものをあなたに返すと。 ゼカリヤ9:12
 神の約束された解放の主の到来を待望する苦難の民に、神は「とりで」であるご自分の下に帰って来なさいと呼びかけられる。しかも「きょうもまた」と再三に渡って、この「わたしは二倍のものをあなたに返す」と励ましてくださる。  この恵みの祝福が付与される理由は、「あなたとの契約のちに血によって」(11節)である。たとえ病気に捕らわれ、苦境に立たされ、捕らわれの境遇に置かれようと、私たちは環境の奴隷とはならない。変えようのない問題山積の中にあっても、それらを一息で一掃なさる神が、私たちの味方なのだから。  だから、望みを持ち続けよう。何時も、どんな状況下に置かれたとしても、主の約束を信じて希望を持ち続けよう。

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2016/08/10

信仰の恵みを大いに証ししよう

万軍の主はこう仰せられる。『その日には、外国語を話すあらゆる民のうちの十人が、ひとりのユダヤ人のすそを堅くつかみ、「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ』と言う。」 ゼカリヤ8:23
 真の生ける神に対して、信仰の民と言われたユダヤ人たちが懐疑的となり、神殿の再建に対しても非協力的な態度に苦労していた総督ゼカリヤへの、希望の預言である。やがて、主を拝する者たちへの豊かな祝福を羨んで、大勢の諸国の民が自分たちもその恵みに与りたい、ぜひ一緒に礼拝に加わらせてくれと頼み込む時代が来るという預言である。  それは今の時代ではなかろうか。神の愛は御子を通して豊かに注がれ、聖霊の神が信じる者たちに確かな導きと十分な助けをお与えになっている。問題は、信仰者たち私たち自身が、その恵みを大胆に味わい、喜び感謝していないからではなかろうか。  キリスト信仰の恵みを大い味わい大胆に証ししようではないか。

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